2016年7月2日土曜日

カリスマ英語講師もキッカケの一つは「洋楽」



斉藤:そうですね。だから、僕は田舎でずっと他人になんと言われようと、自分の英語のやり方をこだわって通したつもりなんですよね。これは、それなりに大変でしたよ。学校の英語の授業が本当に嫌いで、町に何人かしかいないネイティブスピーカーとご飯を食べに行ったり、そういうことをしてました。

安河内:すごい。これが英語ができるようになる人の姿勢だ!!

斉藤:だから、大方の学習者は姿勢が甘いですよ。僕は根性論に逃げたくないので、生徒の姿勢が甘いということは普段は言わないようにしています。むしろ、普通の人が普通に勉強をして上達していくプラットフォームを、こちらは用意しなきゃいけないと思います。

それでもやっぱり、今の中高生でも社会人でも、貪欲さが足りないと思うことがあります。特に中国からアメリカに留学してくる学生だとか、韓国から来る学生だとかと比べると、彼らの貪欲さは違う。アグレッシブさが違うというか。

自分の場合は、英語を身に付けることで、生涯所得や将来得られる知的経験が全然違ってくるだろうということをある程度予測して、自分に投資するんだという思いで、周りに笑われようと、これは必要な能力だからと割り切ってやってたんですよね。

安河内:すごいなぁ、やっぱりこうじゃないと!

斉藤:高校生のときにすでに明確に考えてましたよ、俺は違うんだって。

安河内:私なんかは「英語ができたらモテるんやなかろうか」くらいでした。

斉藤:(爆笑)そういう動機も大切ですね!

安河内:私の場合は、やっぱりアメリカ映画や洋楽、クイーンとかビリー・ジョエルとかが大好きだったんですよ。そういう世代で。「英語はカッコよかぁ」というのと「英語ができたらモテるばい」とか、モチベーションといえば、そんなかんじでした。

斉藤:「モテるばい」ですよね。



安河内:私の場合、まず英語を好きになったきっかけは、アメリカ映画とか洋楽が、その当時、唯一かっこいいものだったのです。若者がかっこいいと思える対象がアメリカ映画であり洋楽だった。学校で英語の勉強をしていたわけではないのですが、小学校の頃から洋楽を聴いたり映画を見たりしてあこがれていたのがひとつ。もうひとつは、自宅の近所に松下村塾みたいな小屋があって、そこである先生が地域の子供たちに英語ではなくて、ローマ字を教えてくれていたのです。

安河内:「イヌ(inu)と書いてみましょう」とか、「ネコ(neko)と書いてみましょう」とかいう、ローマ字教室ですよね。でも、しばらく経つと今度は、その先生が「mystery」と書くんですよ。それで先生が「これ、なんと読むでしょう」って聞くんです。そしたら、皆が元気よく「ムイステリイ」と答える。そこで先生が「これはミステリーと読むとよ」と教えてくれる。つまり、ローマ字からフォニックス(音声)にもっていく。それが週に1回あるのです。

その塾に通っていた子供たちは中学に入って教科書を開いたときに、「This is my friend.」という文を見ても、トゥヒス・イス・マイ・フレンドくらいには読めるんですよ。ほかの子はまったく読めないうちから。

でも、中学で習う英語は違うんですよね。穴埋めしたり和訳したり、三単現がどうのこうのとか、そんなのばかりで。高校になると全文和訳とか。

だから、私の場合は水野先生と違って、自助努力はまったくせずに、中学高校の6年間は無為に過ごしましたよ。

でも、相変わらず英語はかっこいいと思っていましたから、英語学科に行きたくて地元の大学を受けるんだけども英語専攻科には受からず、浪人したときに初めて、ものすごくすばらしい発音の先生に習うことができて、それで「英語ってやっぱりかっこよかばい」ってなって、それでようやく復活したんですよ。

だから、私も必ずしも小学校から英語をやらなければ、できるようにはならないとは、まったく思ってはいないですよ。ただ、やるとなったからには適正にやらなければならないと行動している、ということなんです。

水野:今の安河内先生のお話を聞いて、先生が小学生たちに楽しい思いをさせてあげたいというのが、そこから来ているんだなということがとてもよくわかりました。

安河内:だから、私は深く考えないでいいと思うです。小学校のうちは「好きになるだけ」。どういう方法でもいい。文字で書くのが好きな子もいるし、歌うことが好きな子もいるし、文法が好きな子もいる。これだと決めて、それだけに限定してやらせる必要はないですね。

皆さんね、英語と考えるから難しくなっているのではなでしょうか。これを、モンゴル語と考えてみてください。

私たちは今日から4年間、週に1時間、後半2年間は3時間、モンゴル語を勉強すると仮定するでしょ、1年目はモンゴル語で歌って、2年目はモンゴル語で踊って、さらに3年目もまた歌いましょうとなると、これ、子どもでも大人でも知的欲求は満たせないでしょう。文字だって文法だってやりたい子もいるでしょう。子どもだからって、そこはバカにしちゃいけないところだと思います。

子どもたちは歌も踊りも好きだと思います。嫌いな子も当然いるでしょうけど、全般的には嫌いじゃないと思います。でも、それだけで4年間、引っ張ることはできないでしょう。だから、前倒しをしないというのは、私はおかしいと思いますよ。





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